上杉謙信と武田信玄はなぜ激突した?川中島の戦い・勝敗・塩の逸話を徹底解説

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上杉謙信と武田信玄はなぜ激突した?川中島の戦い・勝敗・塩の逸話を徹底解説
上杉謙信と武田信玄はなぜ激突した?川中島の戦い・勝敗・塩の逸話を徹底解説
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🎵 上杉謙信と武田信玄はなぜ激突した?川中島の戦い・勝敗・塩の逸話を徹底解説

2026年現在も、戦国時代を代表する宿命のライバルとして語り継がれる上杉謙信と武田信玄。二人の名前を聞いて多くの人が思い浮かべるのが、1561年(永禄4年)の第四次川中島の戦いだろう。軍師・山本勘助が考案したとされる啄木鳥戦法、謙信と信玄の一騎打ち、そして両軍に多数の犠牲者が出た激戦は、戦国史のなかでも特に印象的な場面として知られている。

しかし、二人が何度も戦った理由は、単なるライバル意識や個人的な憎しみではない。背景には、信濃国をめぐる領土争い、周辺国の政治情勢、旧領を追われた国衆の存在があった。さらに、川中島の戦いの勝者はどちらだったのか、「敵に塩を送る」という美談は本当にあったのかなど、後世に広まった物語と史料から確認できる事実には違いがある。

この記事では、二人の関係と対立の理由、川中島の戦いの全5回の経緯、第四次合戦の実態、勝敗をめぐる史料、塩留めの逸話までを整理する。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

- 二人が争った理由: 武田信玄の信濃侵攻と、上杉謙信が信濃の国衆を支援したことが対立の大きな原因。
- 第四次川中島の戦い: 1561年に発生した最大規模の激戦。武田信繁らが戦死したが、勝敗には複数の見方がある。
- 最終的な勢力争い: 北信濃の大部分を掌握した武田方が、地域支配では優位に立った。
- 敵に塩を送る逸話: 同時代の確実な記録は確認されず、後世に広まった伝説的な側面が強い。
- どちらが強いのか: 謙信は軍事指揮、信玄は軍事・行政を含む総合的な領国経営に強みがあり、単純な優劣は決められない。

【二人の関係】上杉謙信と武田信玄はなぜ対立したのか?

上杉謙信と武田信玄の関係を理解するうえで、最初に押さえたいのが信濃国(現在の長野県)をめぐる勢力争いだ。

二人は、それぞれ越後国(現在の新潟県)と甲斐国(現在の山梨県)を拠点にしていた。両国の間に位置する信濃は、周辺に複数の国衆が割拠し、統一的な支配者が存在しない地域だった。

この政治的な空白が、両雄の衝突を招くことになる。

武田信玄の信濃侵攻が対立の始まり

武田信玄は1541年(天文10年)に父・武田信虎を追放して家督を継ぎ、甲斐国内の支配を固めた。その後、信濃への侵攻を本格化させる。

諏訪氏、小笠原氏、村上氏など、信濃の有力勢力との戦いを重ね、武田氏の影響力は次第に北へ広がっていった。

信玄にとって北信濃は、領土拡大だけでなく、甲斐・信濃を結ぶ支配体制を安定させるうえでも重要な地域だった。

一方、信濃の国衆にとって武田軍の侵攻は、自らの領地や権力を失う危機を意味した。

村上義清らが上杉謙信に救援を求めた

対立が決定的になったのは1553年(天文22年)ごろだ。

武田軍の攻勢によって葛尾城を失った村上義清は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。

高梨氏や井上氏、須田氏など、北信濃の国衆も上杉方に支援を求めた。

謙信はこうした要請を受け、信濃へ出兵する。

ここで重要なのは、謙信の出兵を単純な正義感だけで説明できないことだ。

信濃が武田氏の支配下に入れば、越後の南側に強力な勢力が形成される。越後の安全保障という観点からも、北信濃の情勢は無視できなかった。

つまり、謙信には旧領を追われた国衆を支援する政治的な理由と、越後を守る戦略的な理由の両方があった。

対立の本質は個人的なライバル意識ではない

二人の対立には、次の3つの要素が重なっていた。

- 領土問題: 武田氏が北信濃へ勢力を拡大し、上杉氏がその進出を阻止しようとした。
- 国衆との関係: 村上義清や高梨氏など、地域の有力者がどちらの大名に従うかが争点になった。
- 安全保障: 越後と甲斐の間に位置する信濃の支配権が、両国の防衛と勢力拡大に直結していた。

長野市立博物館の展示解説でも、信濃に統一的な大名が育たなかったことが、隣国の大名による土地の争奪につながったと説明されている。

二人は互いの実力を認め合う好敵手として語られるが、実際には地域の政治構造と領土をめぐる利害が衝突した結果だった。

上杉謙信武田信玄の当時の様子・関連報道写真
【検証資料 1】上杉謙信武田信玄の当時の様子・関連報道写真(出典:Yahoo!ニュース)

【全5回の年表】川中島の戦いはいつからいつまで続いた?

川中島の戦いは、1553年から1564年までのおよそ12年間にわたって繰り返された一連の軍事衝突だ。

一般的には全5回に分類される。ただし、5回すべてが同じ規模の決戦だったわけではない。長期間のにらみ合いや局地的な戦闘も含まれている。

回数・時期主な出来事戦いの特徴
第一次・1553年村上義清らの救援を受けて謙信が出兵北信濃をめぐる本格的な対立が始まる
第二次・1555年善光寺周辺で両軍が対陣今川義元の仲介で和睦
第三次・1557年武田軍が葛山城などを攻略北信濃への武田方の進出が進む
第四次・1561年八幡原で両軍が激突最大規模の激戦。武田信繁らが戦死
第五次・1564年川中島周辺で約60日に及ぶ対陣大規模な決戦に至らず、謙信が撤退

第一次:1553年、村上義清の救援から始まる

1553年、武田軍の侵攻によって本拠地を失った村上義清が謙信に救援を求めた。

謙信は信濃に兵を進め、武田方と交戦。葛尾城の奪回を図るなど、北信濃での勢力回復を目指した。

この戦いが、後に川中島の戦いと総称される一連の争いの出発点となった。

第二次:1555年、今川義元が仲介した長期対陣

1555年には、善光寺周辺で両軍が長期間対峙した。

謙信は横山城に入り、武田方が支援する旭山城を攻撃したが、決定的な勝敗はつかなかった。

最終的には今川義元が仲介し、和睦が成立する。

両軍の間には一時的な休戦が生まれたものの、信濃の支配問題は解決していなかった。

第三次:1557年、武田軍が北信濃へ進出

1557年、武田軍は葛山城を攻略し、北信濃への進出を進めた。

さらに長沼城や大倉城方面にも勢力を伸ばし、飯山城にも圧力をかけた。

謙信はこれに対抗して出兵したが、決定的な決戦には至らなかった。

第五次:1564年、決着がつかないまま終結

1564年の第五次合戦では、謙信が川中島周辺に進出し、信玄との決戦を求めた。

しかし、信玄が大規模な戦闘を避けたため、約60日間にわたる対陣の後、謙信は10月に越後へ帰還した。

この第五次合戦を最後に、川中島での両雄の大規模な直接対決は行われなくなる。

【第四次川中島の戦い】1561年の激戦で何が起きた?

川中島の戦いのなかでも、特に有名なのが永禄4年(1561年)の第四次合戦だ。

一般に川中島の戦いというと、この戦いを思い浮かべる人が多い。

舞台となったのは、現在の長野県長野市南部に広がる川中島周辺。特に八幡原は、激戦の舞台として知られている。

謙信が関東管領となり、1561年に再び出陣

1561年、謙信は関東管領の職を継承し、上杉政虎と名乗った。

関東管領は、室町幕府の仕組みにおいて関東地方の政治・軍事を統括する重要な役職だった。

謙信は関東へ出兵し、小田原城を攻めた後、越後へ戻る。そして同年8月、再び北信濃へ向かった。

この動きに対し、信玄も自ら軍を率いて川中島へ進出した。

妻女山の上杉軍と海津城の武田軍

謙信は妻女山に本陣を置き、武田方の海津城を見下ろす位置を確保した。

一方、信玄は海津城を拠点に上杉軍と対峙した。

両軍はしばらくにらみ合いを続ける。

そして9月9日の夜、武田軍が兵糧の準備を始めたことが、後世の軍記物では重要な場面として描かれている。

啄木鳥戦法と車懸りの陣

第四次川中島の戦いを象徴するのが、武田軍の啄木鳥戦法だ。

『甲陽軍鑑』などに描かれた通説によれば、山本勘助が考案した作戦で、武田軍を二手に分け、一方が妻女山の上杉軍を攻撃し、もう一方が山を下りてくる敵を待ち受ける挟撃作戦だった。

これに対し、謙信は武田軍の動きを察知し、夜のうちに妻女山を下りて八幡原へ向かったとされる。

武田軍の本隊が待ち受ける場所へ、上杉軍が先に到着して攻撃を仕掛けたという筋書きだ。

上杉軍の車懸りの陣も、この戦いを語る際によく登場する。

ただし、啄木鳥戦法や車懸りの陣の具体的な運用、部隊の移動経路などは、同時代の文書だけで細部まで確認できるわけではない。後世に成立した『甲陽軍鑑』の記述が、現在知られる戦闘イメージに大きな影響を与えている。

武田信繁や山本勘助の最期

1561年の戦いでは、武田信玄の弟である武田信繁が戦死した。

信繁は武田家の重要な一族であり、信玄を支えた有力な武将だった。

また、山本勘助もこの戦いで討ち死にしたと、後世の軍記物では伝えられている。

ただし、信繁の戦死と、勘助の最期をめぐる史料的な確かさは分けて考える必要がある。

長野市の歴史資料では、第四次合戦について『甲陽軍鑑』の詳しい筋書きと、当時の文書に残る情報を区別して紹介している。

謙信と信玄の一騎打ちは本当にあったのか?

第四次川中島の戦いで最も有名な場面の一つが、謙信と信玄の一騎打ちだ。

伝承では、謙信が信玄の本陣に乗り込み、太刀を振り下ろしたところ、信玄が軍配で受け止めたとされる。

現在の川中島古戦場にある信玄・謙信一騎討ち像も、この伝説を象徴する存在だ。

しかし、実際に二人が直接斬り合ったことを裏付ける確実な同時代史料は確認されていない。

長野市誌に掲載された謙信側の感状には、謙信自身が太刀を持って戦ったことをうかがわせる記述がある。しかし、相手が信玄だったとは書かれていない。

つまり、謙信が前線で戦った可能性と、信玄との一騎打ちが実際にあったかどうかは、別の問題なのだ。

上杉謙信武田信玄の活動歴およびメディア掲載記録
【検証資料 2】上杉謙信武田信玄の活動歴およびメディア掲載記録(出典:Yahoo!ニュース)

【川中島の戦いの勝敗】上杉謙信と武田信玄はどちらが勝った?

川中島の戦いの勝敗は、歴史ファンの間でも関心が高いテーマだ。

結論からいえば、第四次合戦について、どちらか一方の完全勝利と断定するのは難しい。

その理由は、両軍が残した記録に、それぞれ自軍の勝利を主張する内容があるためだ。

上杉方は「大勝利」を主張していた

謙信は第四次合戦の直後、1561年9月13日付で家臣に感状を発給している。

感状とは、主君が家臣の戦功を認め、功績をたたえるために発行した文書だ。

この文書では、政虎(謙信)が武田晴信(信玄)と戦い、敵を数千騎討ち取って大きな勝利を得たと説明している。

さらに、家臣の親類や被官人などにも多数の犠牲が出たことに触れ、その忠功を生涯忘れないと伝えている。

新潟県立歴史博物館には、この時期に発給された上杉政虎感状が収蔵されている。本文の内容から「血染感状」とも呼ばれる重要文化財だ。

武田方も勝利を報告していた

一方、信玄も同年10月、京都の清水寺成就院に宛てた文書で、川中島の戦いに勝利したと報告している。

この文書では、敵を3000余人討ち取ったと主張している。

また、当時の記録である『勝山記』は、謙信側に多くの戦死者が出たことと、武田信繁が戦死したことを伝えているが、明確にどちらが勝ったとは記していない。

つまり、両軍とも勝利を主張していたものの、それぞれの記録には自軍の立場や戦功を強調する性格があった。

戦場での勝敗と地域支配の勝敗は異なる

第四次合戦の評価では、戦闘そのものと、その後の領土支配を分けることが重要だ。

戦闘直後の上杉方の感状は勝利を主張している一方、武田方も勝利を報告している。

しかし、その後の北信濃の情勢を見ると、武田氏が優位に立った。

第五次合戦の時期までに、武田方は北信濃の大部分を勢力下に置き、謙信は飯山城を中心に高井郡や水内郡の一部を確保するにとどまったとされる。

この点では、地域支配という長期的な観点から武田方が優勢だった。

一方、第四次合戦そのものをどう評価するかについては、感状や同時代の記録をどう読むかによって研究者の見解が分かれる。

したがって、川中島の戦いの勝敗を判断するときは、次の3点を分けて考えると理解しやすい。

- 戦闘面: 両軍とも大きな損害を受け、勝利を主張している。
- 人的損失: 武田信繁の戦死など、両軍に深刻な被害があった。
- 戦略面: 北信濃の大部分を武田氏が掌握し、領土支配では武田方が優位になった。

「第四次合戦でどちらが勝ったのか」と「川中島周辺を最終的にどちらが支配したのか」は、同じ質問ではない。

【徹底比較】上杉謙信と武田信玄はどっちが強い?

上杉謙信と武田信玄は、ともに戦国時代を代表する大名だが、その強みは必ずしも同じではない。

謙信は軍事指揮官としての能力や遠征での行動力、信玄は軍事組織の運営や領国経営にも優れた人物として知られている。

上杉謙信:軍事指揮と広域遠征に強み

上杉謙信は1530年に生まれ、1578年に没した。

幼名は虎千代。元服後は長尾景虎と名乗り、1561年に上杉家の名跡と関東管領職を継承すると上杉政虎へ改名した。

その後、輝虎と改名し、最終的には謙信の法号で広く知られるようになった。

謙信の特徴は、越後国内の統一だけでなく、信濃や関東、越中方面へ積極的に軍を進めたことにある。

関東管領としての立場を背景に、北条氏との戦いにも関わり、小田原城を攻めるなど広範囲で軍事行動を展開した。

戦場での指揮能力に加え、周辺勢力との関係を維持する外交力も謙信の重要な強みだった。

武田信玄:軍事力と領国経営の両立

武田信玄は1521年に生まれ、1573年に没した。

元服後は武田晴信と名乗り、1559年に出家して信玄と号した。

信玄の大きな特徴は、戦争だけでなく領国を安定的に運営する仕組みを整えたことだ。

1547年には分国法である「甲州法度之次第」を制定。家臣団の統制や法制度の整備を進めた。

また、治水事業として知られる信玄堤や、交通制度の整備、鉱山開発などにも力を注いだ。

こうした施策は、軍事力を維持するための経済的・社会的な基盤を整える役割も果たした。

二人の違いを比較表で整理

比較項目上杉謙信武田信玄
生没年1530~1578年1521~1573年
主な拠点越後国・春日山城甲斐国・躑躅ヶ崎館
主な領国越後を中心に関東・北陸方面へ進出甲斐・信濃を中心に領土を拡大
政治的立場関東管領甲斐の戦国大名、信濃守護
軍事的特徴積極的な出兵と遠征組織的な軍団運営と領土拡大
内政面越後の統治と家臣団の掌握法制度、治水、交通、鉱山開発
代表的な戦い川中島の戦い、関東出兵川中島の戦い、三方ヶ原の戦い
後世の人物像越後の龍、軍神、義の武将甲斐の虎、戦略家、名君

結局、どちらが強かったのか?

軍事指揮官としての能力だけでなく、戦争を継続するための経済力や政治力まで含めると、二人の強さは異なる方向に発揮されていた。

謙信は広範囲に軍を動かし、関東管領という政治的な立場も利用しながら各地の勢力と関係を築いた。

信玄は、甲斐を中心に信濃などの領国を拡大し、法律や治水、交通制度を整備して軍事力を支える基盤を築いた。

川中島の戦いだけを根拠に、どちらかが圧倒的に強かったと決めることはできない。

一度の戦闘での勝敗と、長期的に勢力を維持する能力は別だからだ。

上杉謙信武田信玄に関する近況・インタビュー報道記録
【検証資料 3】上杉謙信武田信玄に関する近況・インタビュー報道記録(出典:Yahoo!ニュース)

【敵に塩を送る史実】上杉謙信は本当に武田信玄を助けた?

上杉謙信と武田信玄の関係を語る際、必ずといってよいほど登場するのが「敵に塩を送る」という逸話だ。

これは、敵対する武田信玄が塩不足に陥った際、上杉謙信が塩の供給を止めず、信玄を助けたという話である。

現在では、困っている相手に対して、敵味方の関係を超えて援助することを意味することわざとして使われている。

しかし、この逸話には史料上の問題がある。

甲斐国は海に面していない内陸の国だった

甲斐国は海に面していないため、塩を自国で大量に生産することが難しかった。

塩は当時、食料の保存や日常生活に欠かせない重要な物資だった。

そのため、甲斐では周辺地域から塩を運び込む必要があった。

長野県の塩に関する歴史資料によると、信濃には日本海側から運ばれる北塩と、太平洋側から運ばれる南塩の流通ルートが存在していた。

塩の輸送は、地域の経済や生活を支える重要な仕組みだった。

今川氏・北条氏による塩留めは事実なのか

一般的な伝説では、武田信玄と対立していた今川氏真と北条氏康が、甲斐への塩の供給を停止したとされる。

さらに、両者は上杉謙信にも塩留めへの協力を求めたが、謙信はこれを拒否したという。

そして越後の商人に対して、甲斐への塩の供給を続けるよう命じたと伝えられている。

ただし、そもそも当時、今川氏や北条氏による組織的な塩留め政策が実施されたのかどうかについても、確実な同時代史料による裏付けはない。

塩の供給が止められたという話そのものを、確定した歴史的事実として扱うことはできない。

「敵に塩を送る」は後世に広まった逸話

公益財団法人塩事業センターが紹介する歴史解説では、この逸話は当時の史料には残されておらず、広く紹介されるようになったのは江戸時代中ごろと説明されている。

さらに、青山学院大学の落合功教授は、越後の塩商人が信濃における商圏を守るため、義塩伝説を広めた可能性を指摘している。

つまり、謙信が無償で大量の塩を信玄に贈ったという話は、同時代の確実な記録で裏付けられていない。

一方、敵対する相手であっても、塩の流通という経済活動まで止める必要はないという考え方が、後世の物語に結びついた可能性はある。

ここで押さえておきたいのは、次の3つの区別だ。

- 伝説: 謙信が信玄を救うために塩を送ったという美談。
- 史料上の問題: 塩留めや塩の送付を裏付ける同時代の確実な記録がない。
- 後世の背景: 江戸時代中ごろに伝説が広まり、地域の塩商人の商圏との関係も指摘されている。

「敵に塩を送る」は、謙信の人物像を象徴する有名な言葉ではあるが、史実として確定した出来事とは区別して理解する必要がある。

【人物像の真相】上杉謙信と武田信玄は互いをどう見ていた?

上杉謙信と武田信玄は、後世の作品や軍記物によって、戦国時代を代表する二人の名将として描かれてきた。

しかし、現在広く知られている人物像には、史料から確認できる部分と、後世の評価や創作によって形成された部分が混在している。

上杉謙信は本当に義を重んじる聖将だったのか

謙信は、関東管領という立場を背景に関東へ出兵し、北条氏などと争った。

また、信濃の国衆からの要請に応じて出兵したことも、後世の義将というイメージにつながっている。

一方で、謙信の軍事行動は政治的・戦略的な目的とも結びついていた。

他国への侵攻や戦闘を行った戦国大名である以上、常に純粋な正義感だけで行動していたと考えるのは適切ではない。

謙信の魅力は、単なる理想主義者ではなく、信仰心や政治的な大義を持ちながら現実の戦争を指揮した複雑な人物であることにもある。

武田信玄は冷徹な軍略家だったのか

信玄は優れた軍事指揮官として知られる一方、領国の制度整備にも力を入れた。

「甲州法度之次第」や治水事業、交通制度の整備は、武田氏の支配を支えた重要な取り組みだった。

また、家臣団をまとめる能力や、周辺勢力との外交関係を調整する能力にも長けていた。

信玄を単に戦争好きの武将として捉えると、その統治者としての実像を見落としてしまう。

二人が後世まで語り継がれた理由

川中島の戦いが有名になった大きな理由の一つに、江戸時代に広く読まれた『甲陽軍鑑』がある。

この書物は武田信玄や勝頼の事績、軍法などを記した軍学書であり、川中島の戦いの物語が広まるうえでも大きな役割を果たした。

ただし、長野市立博物館が説明するように、『甲陽軍鑑』は同時代の実録そのものではない。

史実を含む一方、後世の物語や軍学的な解釈も取り込んでいる。

そのため、山本勘助の軍略や一騎打ちなどの有名な場面を読む際には、物語としての魅力と歴史的な確実性を分けて考えることが大切だ。

二人の名将が何度も戦ったという事実だけでなく、その戦いが後世の人々によってどのように語り継がれてきたかも、川中島の歴史を理解する重要な要素になっている。

【上杉謙信と武田信玄】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:上杉謙信と武田信玄は川中島で何回戦った?

A1:一般的には1553年から1564年までの約12年間に、全5回戦ったと整理されている。特に1561年の第四次川中島の戦いが最大規模の激戦として知られている。

Q2:第四次川中島の戦いは上杉謙信と武田信玄のどちらが勝った?

A2:明確な決着はついていない。上杉方は戦闘直後の感状で大勝利を主張し、武田方も勝利を報告している。ただし、その後の北信濃の支配では武田方が優位に立った。

Q3:上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのは本当?

A3:有名な逸話だが、塩留めや謙信による塩の送付を裏付ける同時代の確実な史料は確認されていない。江戸時代中ごろに広まった伝説的な側面が強い。

まとめ:上杉謙信と武田信玄の勝負は単純な勝ち負けでは語れない

上杉謙信と武田信玄が川中島で繰り返し争った最大の理由は、信濃国の支配をめぐる政治的・軍事的な利害の衝突だった。

武田信玄は甲斐から信濃へ勢力を拡大し、村上義清などの国衆を追い詰めた。これに対して上杉謙信は、信濃の国衆からの要請に応じるとともに、越後の安全保障という観点からも出兵を続けた。

1561年の第四次川中島の戦いでは、武田信繁らが戦死するほどの激戦となった。しかし、両軍がそれぞれ勝利を主張する史料が残っており、戦闘そのものの勝敗を単純に決めることは難しい。

一方、北信濃の大部分を武田氏が掌握したという長期的な結果を見ると、信玄が地域支配で優位に立ったことが分かる。

また、「敵に塩を送る」という有名な逸話も、当時の確実な記録で裏付けられた出来事ではなく、後世に形成された人物像の一つとして理解する必要がある。

二人の関係を正しく理解するための判断基準は、次の3点に集約できる。

1. 軍記物と同時代史料を区別する。 一騎打ちや啄木鳥戦法などの有名な場面は、後世の物語に由来する部分がある。
2. 戦闘の勝敗と領土支配を分ける。 一度の合戦での優劣と、その後の政治的な成果は必ずしも一致しない。
3. 美談と歴史的事実を区別する。 敵に塩を送る逸話は、謙信の人物像を考える材料にはなるが、確定した史実ではない。

上杉謙信と武田信玄は、単に戦場で競い合った二人ではない。互いの勢力を意識しながら、政治、軍事、領国経営のすべてをかけて戦国時代を生き抜いた大名だった。

川中島の戦いが現在まで語り継がれる理由も、勝者が一人に決まらないからだけではない。史料に残された記録と後世の物語を照らし合わせることで、戦国時代の政治や人間関係、そして二人の本当の実力が見えてくるからだ。

主な参考資料・史料

- 長野市立博物館「川中島の戦い」「長野市誌 第二巻 歴史編」
- 長野市「年表で見る川中島の戦い」
- 新潟県立歴史博物館「上杉政虎感状」
- 生島足島神社文書に基づく川中島合戦解説
- 塩事業センター「長野県と塩・敵に塩を送る?」
- 青山学院大学教授・落合功氏による塩の流通と義塩伝説の解説

(出典: 上杉 謙信 武田 信玄(Yahoo!ニュース))

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