【1867年の肖像写真】サットン大佐が撮影した若き徳川慶喜の姿
徳川慶喜の写真を調べるうえで、最初に押さえておきたいのが、1867年3月に撮影された2枚の肖像写真です。撮影者は英国軍艦サーペント号の機関長を務めていたサットン大佐。徳川ミュージアムの収蔵品データベースには、撮影の経緯や写真の材質、裏面に残された記載まで詳しく登録されています。

1867年当時の慶喜は29歳。前年に江戸幕府第15代将軍に就任し、国内政治だけでなく、外国公使との外交にも向き合っていました。写真が撮影されたのは、まさに幕府の将来を左右する重要な時期です。
1867年3月27日と28日に撮影された2枚
徳川ミュージアムの資料解説によると、慶喜は1867年3月25日に兵庫開港を決意し、英・仏・米・蘭の公使にその方針を伝えました。その後、3月27日に英国公使ハリー・パークスらと会見しています。
この会見後に撮影されたのが、サットン大佐による慶喜の肖像写真です。さらに翌3月28日には、英国公使館付歩兵護衛隊の第9連隊分遣隊を閲兵する慶喜の姿も撮影されました。
徳川ミュージアムの収蔵資料とDNPアートコミュニケーションズの作品情報を照合すると、次の2点を区別できます。
- 古写真39-1:1867年3月27日撮影。
- 古写真39-2:1867年3月28日撮影。
いずれも徳川ミュージアム所蔵で、縦9.3cm、横5.8cmの小型写真です。材質は鶏卵紙印画で、岩絵具による彩色が施されています。つまり、現代のカラー写真とは異なり、写真印画に手作業で色を加えた作品です。
特に注目したいのは、写真の裏面に残された記載です。「Stots Bashi, Tycoon of Japan」「Photo (d) by F.W. Sutton C.E.R.N./ at Oosaka 1867」といった文字が記録されており、撮影者と撮影地、撮影年をたどる重要な手掛かりになっています。
撮影された場面の背景が明確であることに加え、写真の裏面に記載された情報まで残っている点は、歴史写真として大きな価値があります。
また、徳川ミュージアムの解説では、この会見の様子が英国にも伝えられ、1867年8月10日号の「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に口絵入りで掲載されたことも紹介されています。日本の将軍の姿が、当時の海外メディアを通じて紹介されていたのです。
サットン大佐の写真が歴史的に重要な理由
この写真の価値は、単に慶喜の顔が写っていることだけではありません。
1867年は、江戸幕府が終焉へ向かう転換期でした。同年10月には大政奉還が行われます。その直前に撮影された肖像は、将軍として外交の場に立つ慶喜の姿を伝える同時代の視覚資料です。
後世に描かれた肖像画や、明治以降に撮影された写真とは違い、撮影当時の人物を直接記録した写真であることが特徴です。
若い頃の徳川慶喜を調べたい人にとっては、1867年の2枚がまず確認したい資料です。
【1908年の家族写真】徳川慶喜と慶久・實枝子が並ぶ貴重な一枚
若き将軍時代の写真と対照的なのが、明治41年(1908年)に撮影された「徳川慶喜家族写真」です。こちらは静岡市歴史博物館の収蔵資料データベースに登録されている実物資料で、写っている3人の人物も公式解説で明らかにされています。
写真の人物は、次のとおりです。
- 右:徳川慶喜
- 中央:慶喜の子・徳川慶久
- 左:慶久の妻・實枝子
この人物配置は静岡市歴史博物館の公開解説に明記されています。ネット上で家族写真を見かけた際、人物の並びを確認するための確かな基準になります。
1908年の慶喜はどのような時期を過ごしていたのか
慶喜は1837年10月28日生まれで、1908年には70歳から71歳を迎える時期にありました。1867年の肖像写真から約41年が経過しています。
国立国会図書館の人物解説によると、慶喜は1869年に謹慎を解かれた後、駿府に居住し、1897年に東京へ移りました。1902年には公爵を授けられています。
つまり、1908年の家族写真は、将軍職を退いてから長い年月が経過し、明治の新しい社会のなかで生活していた慶喜の姿を伝えるものです。
1867年の写真では外交の舞台に立つ将軍、1908年の写真では子とその妻とともに写る年長者という、異なる立場の慶喜を比較できます。写真を通じて、幕末から明治へと移り変わった時間の長さが実感できます。
静岡市歴史博物館で確認できる所蔵情報
静岡市歴史博物館の資料情報では、この家族写真は「徳川慶喜家族写真」という名称で登録されています。資料状態は実物資料で、静岡市所蔵です。
2025年4月26日から6月8日まで開催された企画展「明治維新と静岡―徳川慶喜、家達と旧幕臣たち」でも展示されたことが記録されています。ただし、これは過去の展示実績であり、2026年10月現在の展示状況を示すものではありません。
また、博物館のデータベースでは、画像の掲載などの利用について、条例に基づく特別閲覧と事前許可が必要と案内されています。記事や出版物で写真を使用したい場合は、画像を閲覧できることと、自由に転載できることを混同しないよう注意が必要です。
【カメラマンとしての慶喜】本人が撮影した写真と明治期の作品
徳川慶喜の写真を調べる際に、意外に知られていないのが、慶喜自身が写真を撮影していたという事実です。
1867年の肖像写真では、慶喜は撮影される側でした。しかし、将軍職を退いて静岡で生活するようになると、カメラを趣味として楽しみ、自ら風景や人物を撮影するようになります。
静岡で過ごした時間と写真趣味
静岡県立中央図書館の歴史案内によると、慶喜は1869年10月に駿府の紺屋町に移り住みました。その後、1888年には西草深へ転居しています。
静岡時代の慶喜は、写真だけでなく油絵、狩猟、自転車など多彩な趣味を楽しんでいました。政治の第一線から離れた後の生活は、歴史上の人物としての慶喜とは異なる一面を見せています。
静岡市歴史博物館の収蔵資料には「プレモカメラ」が登録されています。制作年代は1905年ごろで、原資料は久能山東照宮所蔵、同館に登録されているものは複製資料です。
同館の解説では、慶喜が静岡各地を訪れ、明治時代の風景や人々の様子を写真に収めていたことが紹介されています。
慶喜が愛用したカメラはどこで見られる?
カメラの所蔵先として押さえておきたいのが、久能山東照宮博物館です。同館の公式収蔵品案内には、慶喜が静岡在住中に使用したカメラや釣道具などが収蔵されていると記されています。
2026年1月26日放送のテレビ朝日「グッド!モーニング」でも、久能山東照宮博物館に残る慶喜愛用のカメラが取り上げられました。番組では、当時としては珍しい海外製のカメラに注目しています。
写真機材そのものが残っていることは、慶喜の写真趣味を考えるうえで重要です。写真作品だけでなく、撮影に使用した道具からも、彼が新しい技術に関心を持っていたことがうかがえます。
慶喜自身の撮影写真を調べるなら写真集も重要
慶喜自身が撮影した写真をまとまった形で調べたい場合は、1986年刊行の写真集『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』も参考になります。
国立情報学研究所のCiNii書誌情報によると、同書は朝日新聞社刊、135ページの写真集で、監修は徳川慶朝です。徳川慶喜の直孫によって秘蔵されてきた写真を収録した資料として紹介されています。
目次には静岡時代、東京・巣鴨邸、小日向邸、東京の風物、東京勧業博覧会、周辺の人々などが並びます。これらのテーマからも、慶喜の写真が個人的な記念撮影にとどまらず、明治の生活や社会を記録する資料になっていることが分かります。
1867年のサットン大佐による肖像写真と、明治期に慶喜自身が撮影した写真は、撮影者も目的も異なります。この2つを区別して探すことが、徳川慶喜の写真を正しく理解する第一歩です。
【写真の見分け方】若い頃と晩年、本物の写真を判断するポイント
インターネットで徳川慶喜の写真を検索すると、肖像写真、家族写真、晩年の写真、写真集から転載された画像など、さまざまな画像が表示されます。
しかし、画像が表示されていることだけでは、撮影年代や撮影者、原資料の所在までは分かりません。歴史写真を調べるときは、見た目の印象だけでなく、所蔵館の資料情報を確認することが大切です。
若い頃の写真と晩年の写真を比較する
代表的な比較対象は、1867年のサットン大佐による肖像写真と、1908年の家族写真です。
前者は将軍時代の29歳、後者は70代初めの姿です。撮影環境も写真の目的も異なるため、顔の印象だけで人物を判定するのではなく、年代と所蔵情報を合わせて確認します。
特に1867年の写真は、徳川ミュージアムが撮影日を3月27日と3月28日に分けて登録しています。両方を一括して「1867年の写真」と紹介することはできますが、個別の作品を特定するときは撮影日の違いまで見る必要があります。
本物の写真と複製画像を混同しない
「徳川慶喜の本物の写真」を探す人が気をつけたいのは、原資料とデジタル画像の違いです。
例えば、徳川ミュージアム所蔵の1867年の肖像写真は、鶏卵紙印画に岩絵具で彩色した実物資料です。一方、博物館やデジタルアーカイブで画面に表示される画像は、その実物を記録・公開するためのデジタル画像です。
写真の真正性を調べる場合は、次の項目を確認してください。
- 所蔵館:徳川ミュージアムや静岡市歴史博物館など、実物を管理する機関が明記されているか。
- 資料名:「徳川慶喜公肖像写真」「徳川慶喜家族写真」など、正式な作品名があるか。
- 撮影年月日:1867年3月27日、28日、1908年など、年代を特定できるか。
- 撮影者:サットン大佐など、撮影者が記録されているか。
- 材質・寸法:鶏卵紙印画、縦9.3cm・横5.8cmなど、物理的な作品情報があるか。
- 登録番号:収蔵品番号や作品番号が確認できるか。
これらの情報がそろっている資料は、画像だけが転載された出所不明の写真よりも、歴史的な裏付けをたどりやすくなります。
なお、古写真には複写や着色、印刷物への転載など複数の形態があります。カラーであることや鮮明であることだけを理由に、原本か複製かを判断することはできません。
【関連資料と人物関係】徳川慶喜の写真を年代別に整理
徳川慶喜の写真をより深く理解するには、写真単体だけでなく、撮影に関わった人物、家族、所蔵館、関連資料の関係を整理すると分かりやすくなります。
特に重要なのは、サットン大佐による将軍時代の撮影、明治期の慶喜自身による写真撮影、そして1908年の家族写真という3つの異なる記録です。
この一覧で注目したいのが、1888年の「徳川慶喜・家達写真」です。静岡市歴史博物館の収蔵資料には、明治21年に撮影された慶喜と家達の写真に関する資料が残されています。
同館の解説では、静岡を訪れた家達と慶喜が県内各地を巡り、旧幕臣たちと交流した際の写真として紹介されています。かつての主君と徳川宗家を継いだ家達の姿は、明治期の徳川家と旧幕臣の関係を読み解く手掛かりです。
つまり、1867年の肖像、1888年の慶喜・家達写真、1908年の家族写真を並べると、将軍としての外交、徳川家の再編、家族との生活という異なる歴史的場面を追うことができます。
【公開資料の探し方】徳川慶喜の写真を所蔵館で調べる方法
徳川慶喜の写真を実際に確認したい場合は、画像検索だけでなく、博物館や公的機関の収蔵品データベースを利用するのがおすすめです。資料名や撮影年代を入力すると、写真の基本情報や所蔵先を確認できます。
1.徳川ミュージアム
1867年のサットン大佐による肖像写真を探すなら、最初に確認したい施設です。
収蔵品データベースでは「徳川慶喜公肖像写真」の登録番号00004が公開されており、撮影者、撮影経緯、写真の材質、裏面の記載などを確認できます。2枚の写真の違いを調べる際にも役立ちます。
2.静岡市歴史博物館
1908年の家族写真を探すなら、同館の収蔵資料データベースが有力です。
「徳川慶喜家族写真」という資料名で検索すると、撮影年、写っている3人の人物、資料の状態、展示履歴などを確認できます。
また、「徳川慶喜・家達写真」や「プレモカメラ」など、慶喜の静岡時代を理解する関連資料も調べられます。
3.国立国会図書館
国立国会図書館の電子展示「近代日本人の肖像」では、徳川慶喜の生没年や経歴、肖像画像を確認できます。
同館の人物情報によると、慶喜は1837年10月28日に生まれ、1913年11月22日に亡くなりました。第15代将軍としての経歴や、明治以降の生活を理解するための基礎資料として利用できます。
4.久能山東照宮博物館
慶喜本人が使用したカメラを調べたい場合は、久能山東照宮博物館の収蔵品案内を確認するとよいでしょう。
同館には、慶喜が静岡在住中に愛用したカメラなどが収蔵されています。写真作品だけでなく、撮影機材という視点からも慶喜の写真趣味を調べられます。
なお、2026年に現地で実物を見たい場合は、常設展示か企画展示か、展示替えの有無を事前に確認する必要があります。収蔵されていることと、常時展示されていることは同じではありません。
【徳川慶喜の写真】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川慶喜の若い頃の写真は残っていますか?
A1:残っています。代表的な資料が、1867年3月27日と28日に英国軍艦サーペント号の機関長サットン大佐が撮影した肖像写真です。当時の慶喜は29歳で、江戸幕府第15代将軍でした。徳川ミュージアムが2点を所蔵しています。
Q2:徳川慶喜の晩年の写真で有名なものは何ですか?
A2:1908年の「徳川慶喜家族写真」が代表的です。写真には右から慶喜、子の慶久、慶久の妻・實枝子が写っています。静岡市歴史博物館の所蔵資料データベースで確認できます。
Q3:徳川慶喜の写真を撮影したのは誰ですか?
A3:1867年の代表的な肖像写真を撮影したのは、英国軍艦サーペント号の機関長サットン大佐です。一方、明治期には慶喜自身もカメラを使って静岡の風景や人々を撮影していました。撮影者は写真の年代や作品によって異なります。
Q4:徳川慶喜が自分で撮影した写真は見られますか?
A4:慶喜自身の撮影写真を調べる資料として、1986年刊行の『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』があります。また、静岡市歴史博物館の資料解説でも、慶喜が静岡の風景や人々を撮影していたことが紹介されています。
Q5:徳川慶喜の本物の写真はどこで確認できますか?
A5:1867年の肖像写真は徳川ミュージアム、1908年の家族写真は静岡市歴史博物館の収蔵資料データベースが確認先になります。撮影年月日、所蔵館、資料番号、材質などを照合すると、写真の出所をたどりやすくなります。
Q6:1867年の写真と1908年の写真では何歳くらい違いますか?
A6:1867年の慶喜は29歳、1908年は誕生日を基準に70歳から71歳です。約41年の時間差があり、将軍時代と晩年の姿を比較する資料として価値があります。
まとめ:徳川慶喜の写真から読み解く幕末・明治の42年間
徳川慶喜の写真は、単に最後の将軍の顔を確認するための資料ではありません。幕末の外交、明治維新後の生活、徳川家の変化、そして慶喜自身の趣味や関心までを映し出す歴史資料です。
特に押さえておきたいのは、次の3つです。
- 1867年:サットン大佐が撮影した2枚の肖像写真。将軍時代の慶喜を伝える重要資料。
- 明治期:慶喜自身がカメラを使い、静岡の風景や人々を撮影。写真愛好家としての一面を示す記録。
- 1908年:慶喜、慶久、實枝子が並ぶ家族写真。晩年の慶喜と徳川家の姿を伝える資料。
写真を探す際は、1867年の肖像なら徳川ミュージアム、1908年の家族写真なら静岡市歴史博物館、慶喜自身の撮影活動なら写真集や久能山東照宮博物館を起点にすると効率的です。
将軍として歴史の大きな転換点に立った青年期と、カメラを手に明治の風景を記録した晩年。異なる時代の写真を見比べることで、徳川慶喜という人物の知られざる素顔と、幕末から近代日本へと続く時間の流れが、より立体的に見えてきます。
【プロの結論】徳川慶喜の写真を見極める最も確実な方法は、顔立ちだけで判断せず、撮影者・撮影年月日・材質・所蔵館・資料番号の5点を照合することです。とりわけ1867年のサットン大佐による肖像と1908年の家族写真は、年代と人物が公的な収蔵資料で確認できる重要な比較対象です。写真そのものを入口にすれば、最後の将軍という肩書だけでは捉えきれない慶喜の人生を読み解くことができます。 (出典: 徳川 慶喜 写真(Yahoo!ニュース))