創氏改名とは何だったのか?2026年に読む法令・法定創氏と強制の実態、歴史的背景を徹底解説
創氏改名(そうしかいめい)とは、1939年(昭和14年)に日本統治下の朝鮮で公布された制令第19号・第20号に基づき、1940年2月11日から実施された戸籍・氏名制度の変更である。朝鮮総督府が進めた皇民化政策の一環として知られ、日本の植民地支配と朝鮮社会の家族制度を考えるうえで重要な歴史的出来事だ。
この制度を理解するうえで最も重要なのは、「創氏」と「改名」は同じ仕組みではなかったという点である。創氏は朝鮮人の全世帯に新たな「氏」を適用する制度であり、届出をしなかった場合も戸主の姓が自動的に氏となった。一方、個人の「名」を日本風に変更する改名は、裁判所の許可を必要とする任意の手続きだった。ただし、創氏の届出には行政による圧力が伴い、形式上の届出制度と実際の強制性には大きな隔たりがあった。2026年の現在、法令の内容、当時の運用、朝鮮社会に与えた影響を分けて理解する必要がある。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 制度の基本:1939年11月10日に制令第19号・第20号が公布され、1940年2月11日から施行された。
- 創氏と改名の違い:創氏は全世帯に適用されたが、個人の名を変更する改名は任意で、裁判所の許可と手数料が必要だった。
- 歴史的な実態:創氏は法定創氏によって全員に適用され、約8割の世帯が設定創氏を届け出た。改名者は1941年末時点で総人口の約9.7%だった。
【まず結論】創氏改名とは?1939年の制令と制度の基本を解説
創氏改名は、日本が朝鮮を統治していた時代に、朝鮮人の戸籍上の氏名を日本の家制度に近い仕組みに変更した政策である。朝鮮総督府が朝鮮民事令を改正し、従来の姓・本貫を基礎とする家族制度に、日本の「氏」という家の名称を導入した。
ここで注意したいのは、創氏改名という言葉が一つの政策を指していても、法律上は二つの異なる変更を含んでいたことである。
- 創氏:世帯を単位とする新たな「氏」を設け、戸籍上の家の名称として適用すること。
- 改名:個人の「名」を変更すること。日本風の名への変更には所定の許可手続きが必要だった。
つまり、朝鮮人全員に日本風のフルネームへの変更が義務付けられたわけではない。法的に全員へ適用されたのは創氏であり、個人の名まで変更した人は一部だった。
朝鮮人の姓・本貫と日本の氏は何が違うのか
制度を理解するには、朝鮮の「姓」と日本の「氏」の違いを知る必要がある。
朝鮮の伝統的な姓名は、基本的に本貫・姓・名によって構成されていた。本貫とは、その姓を持つ一族の始祖に結び付く出身地や系譜上の出自を示すものである。同じ金氏であっても、本貫が異なれば別の宗族として認識されることがあった。
また、姓は父系血統を示す重要な標識であり、女性も結婚によって夫の姓に変更することはなかった。婚姻しても、本人の姓と本貫を保持する仕組みだったのである。
一方、日本の「氏」は、個人の血統だけではなく、同じ戸籍に属する家族集団、すなわち「家」を示す名称だった。婚姻や養子縁組によって所属する家が変われば、氏も変わるという性格を持っていた。
創氏改名では、この日本式の氏を朝鮮人の戸籍にも導入した。その結果、これまで異なる姓を名乗っていた夫婦も、戸籍上は同じ氏を持つことになった。
なお、従来の姓や本貫が戸籍から完全に消されたわけではない。氏名と姓・本貫が併記される形で、従来の血統的な標識も残された。ただし、公的な氏名として新たな氏が使用されるようになった点は大きな変化だった。

【制度の仕組み】創氏と改名の違い・法定創氏とは何か
創氏改名の制度上の核心は、1940年2月11日から8月10日までの約6か月間に設けられた創氏の届出期間にある。
この期間に戸主は、新しい氏を決めて府尹または邑面長に届け出ることとされた。自分の家に新たな氏を設定する手続きは「設定創氏」と呼ばれる。
設定創氏と法定創氏の違い
設定創氏では、戸主が新しい氏を決め、役所に届け出た。その氏は同じ戸籍に属する家族全員に適用された。
一方、期限までに氏の設定届を提出しなかった世帯には、別の仕組みが用意されていた。それが「法定創氏」である。
法定創氏とは、届出をしなかった場合、制度施行時点における戸主の姓を自動的にその家の氏とする仕組みだ。つまり、届出を拒否しても氏の適用そのものを回避することはできなかった。
この仕組みによって、設定創氏を選んだ世帯も、届出をしなかった世帯も、最終的にはすべての世帯に氏が適用された。
夫婦同氏制によって何が変わったのか
創氏改名による大きな変化の一つが、夫婦同氏制の導入だった。
例えば、戸主が李氏、妻が朴氏だった世帯で届出をしなかった場合、戸主の姓である「李」が家の氏となる。妻も公的な氏名では戸主と同じ「李」を使用することになった。
ただし、妻の本来の姓である「朴」や本貫まで消滅したわけではない。戸籍には従来の姓と本貫が残りながら、家の名称としては夫と同じ氏を持つ構造に変わったのである。
この変更は単なる呼び名の統一ではない。個人の父系血統を示す姓と、家族が所属する家の名称を区別し、後者を戸籍制度の中心に据えるという、家族関係の法的な再編だった。
制令第19号・第20号と創氏改名の経緯
制度の成立から戦後の姓名復旧までを整理すると、次のようになる。
| 時期 | 法令・出来事 | 主な内容と影響 |
|---|---|---|
| 1912年4月 | 朝鮮民事令(制令第7号) | 朝鮮の民事関係を規定。親族・相続など一部に朝鮮の慣習を適用。 |
| 1939年11月10日 | 制令第19号 | 朝鮮民事令を改正。新たな氏の創設、異姓養子や婿養子などに関する制度変更を規定。 |
| 1939年11月10日 | 制令第20号 | 朝鮮人の氏名に関する規定。氏名変更には正当な事由と所定の許可を必要とした。 |
| 1940年2月11日 | 創氏改名の施行 | 創氏の届出期間が始まる。設定創氏と法定創氏によって全世帯に氏が適用された。 |
| 1940年8月10日 | 創氏の届出期限 | 設定創氏の届出期間が終了。未届世帯には戸主の姓による法定創氏が適用された。 |
| 1941年末 | 改名の実施状況 | 個人の名を変更した人は約231万人、総人口の約9.7%とされる。 |
| 1946年10月23日 | 米軍政庁法令第122号 | 朝鮮姓名復旧令を公布。植民地期の創氏制度による日本式氏名の戸籍記載を無効とした。 |
以上の経緯から分かるのは、創氏改名が単に日本風の名前を名乗るよう求めた政策ではなく、戸籍上の家族関係そのものを変更する制度だったということである。
【導入の背景】南次郎朝鮮総督と皇民化政策が進められた理由
なぜ日本は、朝鮮人の姓や家族制度にまで変更を加えようとしたのか。
背景には、1930年代後半に本格化した戦時体制と、日本による植民地統治の同化政策があった。特に第7代朝鮮総督の南次郎が掲げた「内鮮一体」という統治理念が重要な意味を持っていた。
南次郎総督が掲げた「内鮮一体」
南次郎は1936年8月に朝鮮総督へ任命された人物で、1936年から1942年まで総督を務めた。陸軍大将としての経歴を持ち、就任後は朝鮮と日本の一体化を強く打ち出した。
1937年に日中戦争が始まると、朝鮮は日本の戦争遂行を支える人的・物的資源の供給地として、さらに重要な位置を占めるようになった。朝鮮総督府は日本語使用、神社参拝、皇国臣民の誓詞、志願兵制度などを通じて皇民化政策を強化していった。
南次郎が1939年5月の演説で示した内鮮一体の理念は、韓国国史編纂委員会が公開する歴史資料にも記録されている。
「形も、心も、血も、肉も、すべてが一体にならなければならない。」
この言葉が示すのは、単に日本と朝鮮の行政制度を統一するという発想ではない。朝鮮人の精神、文化、家族関係まで日本国家の統治理念に組み込もうとする思想だった。
創氏改名の理由は日本式の名前を普及させることだけではない
創氏改名の重要な目的の一つは、日本の「家制度」に近い仕組みを朝鮮社会に導入することだった。
朝鮮では、姓と本貫によって父系血統や宗族とのつながりが示されていた。これに対し、日本の家制度では、戸籍上の家を単位として家族が同じ氏を名乗る。
朝鮮総督府は、朝鮮民事令の改正によってこの違いを縮小し、家を単位とする戸籍管理を強化しようとした。
1939年の制令第19号では、創氏だけでなく、従来の朝鮮の慣習では認められていなかった異姓養子や婿養子に関する制度も変更された。異なる姓を持つ者同士の養子縁組を可能にし、妻の家に入る婿養子の仕組みも整えられたのである。
つまり、創氏改名は氏名の変更と家族・親族制度の再編を組み合わせた政策だった。
戦時動員と皇民化政策との関係
もう一つ見逃せないのが、戦時動員との関係である。
日本は日中戦争の長期化に伴い、朝鮮からも兵員や労働力などを動員する体制を整えていた。1938年には陸軍特別志願兵制度が始まり、1943年には朝鮮で徴兵制が公布された。
当時の朝鮮総督府にとって、朝鮮人を日本の国家制度に組み込むことは、統治の一体化だけでなく、戦争遂行に必要な人員管理や社会統制とも結び付いていた。
韓国国史編纂委員会が収録する研究論文でも、創氏改名は内鮮一体の実現と、将来の徴兵制度を見据えた軍事的な人員管理という複数の背景から分析されている。
したがって、創氏改名の理由を「日本風の名前を広めたかったから」という一つの説明だけで理解することはできない。皇民化、家制度の導入、戸籍管理、戦時動員が重なった政策だった。

【強制性と実態】創氏は本当に強制だった?8割の届出と改名率9.7%の意味
創氏改名をめぐる議論で、特に混同されやすいのが「届出が任意だった」という説明と「制度が全員に適用された」という事実である。
確かに、設定創氏では戸主が氏を決めて届け出る手続きが採用されていた。しかし、届け出なければ従来の姓が氏として自動的に適用されるため、創氏そのものを拒否する選択肢は存在しなかった。
形式上の届出制と実際の行政圧力
朝鮮総督府は当初、創氏を本人や家族が選択する制度として説明していた。しかし、制度開始直後の届出は低調だった。
そこで総督府や地方行政機関は、創氏を推進するための働きかけを強めていった。朝鮮社会の指導的立場にある人物や警察官、教員などが率先して設定創氏を行うよう求められ、地方では行政組織を通じた届出の促進が進められた。
京都大学名誉教授の水野直樹氏は、当時の政策資料や新聞などを検証し、当局が創氏の届出率を高めるために圧力を加えた実態を指摘している。創氏への批判を公然と行った人が処罰された事例も紹介されている。
また、山川出版社の日本史小辞典は、公的機関への採用や食糧配給をめぐる不利益が圧力として用いられたことを説明している。
ここで重要なのは、法令上の手続きが届出制だったことと、植民地統治下で住民が実質的に自由な選択をできたかどうかは、別の問題だという点である。
約8割の設定創氏と約9.7%の改名は何を意味するのか
創氏改名の実態を理解するには、設定創氏と改名の統計を分けて見る必要がある。
- 設定創氏:約80%。全戸数の約8割が新たな氏を届け出た。
- 法定創氏:約20%。届出を行わなかった世帯には、戸主の姓が自動的に氏として適用された。
- 改名:約9.7%。1941年末までに個人の名を変更した人は約231万人で、総人口約2,386万人の約9.7%だった。
この数字が示すのは、創氏の届出率が約8割だったからといって、朝鮮人の8割が個人の名まで日本風に変えたわけではないという事実である。
改名を希望する場合は、本籍地または住所地を管轄する裁判所の許可を受ける必要があった。申請時には変更理由を記載し、手数料50銭を納める手続きも必要だった。役所への届出で完了する創氏と比べ、改名にはより複雑な手続きが設けられていた。
研究者の水野直樹氏は、当局の主な関心が家制度に近い氏制度の導入にあり、個人の名まで一律に日本風へ変更することには必ずしも積極的ではなかったと説明している。
当時の人々の対応は一様ではなかった
創氏改名をめぐる人々の対応は、単純に賛成か反対かの二つに分けられるものではなかった。
朝鮮人の側には、従来の姓や一族の伝統を守ろうとする人、制度に反発する人、行政上の不利益を避けるために届出を行う人など、さまざまな立場があった。設定した氏にも、日本風の名称だけでなく、従来の姓や本貫に由来するものなどが見られた。
この多様性を示す資料の一つが、國分麻里氏による学術論文「朝鮮人女学生と改名―1940〜1945年の東莱高等女学校を中心として―」である。同研究は、東莱高等女学校に保管されていた学籍簿を分析し、創氏改名前後の女子学生の名前の変化を調べている。
例えば、1941年度卒業生44人の分析では、朝鮮名のままだった人が14人、日本風の名に変更したと判断された人が24人、改名前から日本風の名だった人が5人、判別が難しい人が1人だった。
これは一校の卒業生を対象とした事例で、朝鮮全体の統計ではない。しかし、制度の下でも個人の名の変化には違いがあり、創氏と改名を一括りにできないことを具体的に示している。
【戦後への影響】朝鮮姓名復旧令と戸籍に残された創氏改名の痕跡
創氏改名は、日本の敗戦によって植民地統治が終わると、その制度的な根拠を失った。しかし、戸籍や行政記録に残された名前を元に戻すには、別の法的手続きが必要だった。
1946年の朝鮮姓名復旧令で日本式氏名が無効に
1946年10月23日、南側を統治していた在朝鮮米軍政庁は、法令第122号「朝鮮姓名復旧令」を公布した。
この法令は、日本統治時代の創氏制度に基づいて日本式氏名へ変更された戸籍上の記載を、変更された当初から無効とする内容だった。従来の朝鮮姓名に戻すための簡易な手続きを設けたのである。
ただし、日本式の名前をそのまま維持したい人については、所定の期間内に申し出ることで、その名前を保持できる仕組みも設けられた。また、創氏改名の下で成立した法律行為は無効にならないとされた。
これは、氏名の変更を無効とする一方で、その名前を使って成立した婚姻や財産関係などの法律上の安定性を守るための措置だった。
戦時中の記録と名前の問題
創氏改名の影響は、戸籍上の氏名だけにとどまらなかった。
戦時中の動員名簿、軍関係の記録、死亡者名簿などには、創氏後の名前が記載された。そのため、戦後に本来の朝鮮姓名へ戻した場合、別々の名前で残された資料を同一人物の記録として結び付けることが難しくなる問題が生じた。
水野直樹氏も、戦時期の被害記録が創氏名で残されていることが、個人の身元や犠牲者を確認する際の障害になっていると指摘している。
また、現在の在日コリアンが使用する日本風の通名の中には、創氏の時期に設定された氏に由来するものもある。ただし、それ以前から日本風の名前を使用していた人や、1945年の解放後に通名を変更した人もいるため、すべての日本風の通名を創氏改名に結び付けることはできない。
現代の韓国でも名前と社会的な事情は無関係ではない
名前をめぐる社会的な事情は、植民地統治の終了後も別の形で存在している。
中央日報が報じた2012年12月から2013年11月までの韓国の創姓・創本申請は、合計7,578件だった。申請理由には、韓国人らしくない名前が目立つことへの抵抗感や、発音の難しさ、日常生活での不便などが挙げられている。
ただし、これは現代の韓国における本人の申請による別の制度であり、植民地期の創氏改名とは法的な性格が異なる。本人が選択する現代の氏名変更と、植民地統治下で全世帯に適用された創氏を同列に扱うことはできない。

【プロの結論】創氏改名の真相を理解するために押さえるべき3つの視点
創氏改名の歴史を正確に理解するには、単に「強制だった」「任意だった」という二者択一の説明から離れ、法令、行政運用、個人の経験という三つの視点を組み合わせる必要がある。
視点1:創氏の法的強制と改名の任意性を区別する
創氏は、届出をしなかった場合にも法定創氏が適用される制度だった。その意味で、全員に氏を適用する法的な強制性があった。
一方、個人の名を変更する改名は任意であり、裁判所の許可を必要とした。両者の法的な仕組みを混同して「全員が日本風の名前に変更した」と説明するのは正確ではない。
視点2:届出率をそのまま民衆の賛同率と考えない
設定創氏の届出が約8割に達したという数字は、政策が広く実施されたことを示す。しかし、その数字だけから住民が政策を支持していたと判断することはできない。
届出をしなければ法定創氏になる仕組みがあり、行政による働きかけや生活上の圧力も存在した。植民地統治という権力関係の中で行われた届出である以上、数字を本人の自由意思による賛成票のように扱うことは適切ではない。
視点3:名前だけでなく家族制度の変更に注目する
創氏改名の本質は、日本風の名字を広めることだけではなかった。朝鮮の姓と本貫に基づく父系血統の仕組みに、日本の家制度に近い氏を導入し、夫婦同氏制や養子制度などを通じて家族関係を再編したことにある。
そのため、この政策を研究するときには、氏名の変更率だけでなく、朝鮮民事令の改正内容、戸籍の記載方法、夫婦や親族の法的関係、戦後の姓名復旧までを一つの流れとして捉えることが重要になる。
創氏改名をめぐる最も重要な歴史的事実は、創氏は全員に適用された一方、改名は任意だったという制度上の違いと、その制度が植民地統治下の行政圧力を伴って運用されたという実態が同時に存在していたことである。
【創氏改名の歴史】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:創氏改名は朝鮮人全員に強制されたのですか?
A1:創氏については、全世帯に氏が適用される仕組みだったため、法的には全員が対象となった。期限までに届出をしなかった場合も、戸主の姓が氏となる法定創氏が適用された。ただし、個人の名を変更する改名まで全員に義務付けられたわけではない。
Q2:創氏と改名は何が違うのですか?
A2:創氏は家族が所属する家の名称である「氏」を新たに設けること。改名は個人の「名」を変更することだ。創氏は全員に適用され、改名は裁判所の許可を受けて希望者が行う任意の手続きだった。
Q3:法定創氏とは何ですか?
A3:1940年8月10日までに氏設定の届出をしなかった世帯について、戸主の姓を自動的に家の氏とする制度である。本人が届出を拒否しても氏の適用を避けられなかった点が、創氏の法的強制性を示している。
Q4:創氏改名によって朝鮮人の姓や本貫は完全に消されたのですか?
A4:完全に消されたわけではない。戸籍には新しい氏名と従来の姓・本貫が併記された。ただし、公的に使用される氏名が変わり、家族全員が同じ氏を名乗る仕組みになったことは大きな変更だった。
Q5:創氏改名はいつ廃止されたのですか?
A5:1945年の日本敗戦と植民地統治の終了によって制度の前提が失われた。その後、南側では1946年10月23日に米軍政庁法令第122号「朝鮮姓名復旧令」が公布され、植民地期の創氏制度による日本式氏名の戸籍記載が無効とされた。
まとめ:創氏改名は名前と家族制度を変えた植民地統治政策だった
創氏改名は、1939年11月に朝鮮総督府が公布した制令第19号・第20号に基づき、1940年2月11日から実施された政策である。
制度の中心となった創氏は、全世帯に氏を適用するもので、届出をしなかった場合には戸主の姓を氏とする法定創氏が行われた。一方、個人の名を変更する改名は任意であり、裁判所の許可と手数料を必要とした。
しかし、創氏の届出には行政による圧力が伴い、形式的な届出制だけでは当時の実態を説明できない。約8割の世帯が設定創氏を届け出た一方、個人の名まで変更した人は1941年末時点で総人口の約9.7%だったという数字も、この違いを明確に示している。
南次郎総督の内鮮一体政策、皇民化政策、朝鮮民事令の改正、日本式の家制度の導入、戦後の朝鮮姓名復旧令。これらを一連の歴史として捉えることで、創氏改名が単なる名前の変更ではなく、植民地支配の下で人々の家族関係や社会的なアイデンティティにまで影響を及ぼした政策だったことが理解できる。
2026年にこの歴史を振り返る際にも、法令上の制度と実際の強制性、そして当時の人々が置かれた状況を切り分けて考えることが欠かせない。名前は個人の識別記号であると同時に、家族の歴史、血統、文化、自己認識と結び付くものだからである。
主な参照史料・研究資料(記事本文外)
- 韓国国史編纂委員会『朝鮮総督府官報』1939年11月10日、制令第19号・第20号。
- 韓国国史編纂委員会『新編韓国史』「創氏改名」。
- 國分麻里「朝鮮人女学生と改名―1940〜1945年の東莱高等女学校を中心として―」。
- 水野直樹氏による創氏改名の制度・行政圧力・戦後への影響に関する解説。
- 韓国国史編纂委員会所収「南総督の内鮮一体主張」に関する研究資料。
- 米軍政庁法令第122号「朝鮮姓名復旧令」(1946年10月23日)。 (出典: 創 氏 改名(Yahoo!ニュース))