【幼少期】宮崎駿はどんな少年だった?戦争の記憶と飛行機への関心

目次
【幼少期】宮崎駿はどんな少年だった?戦争の記憶と飛行機への関心
【幼少期】宮崎駿はどんな少年だった?戦争の記憶と飛行機への関心
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 【幼少期】宮崎駿はどんな少年だった?戦争の記憶と飛行機への関心

宮崎駿の創作の原点を理解するには、1941年から高校時代までの経験を知る必要がある。

1941年生まれ、航空機に囲まれた家庭環境

宮崎駿は1941年1月5日、東京都に生まれた。父・勝次は航空機部品の製造に関わっており、宮崎は幼い頃から飛行機を身近に感じる環境で育った。

一方、幼少期は第二次世界大戦と重なっている。1945年、4歳だった宮崎は宇都宮の空襲を経験した。

2025年にリアルサウンド映画部が紹介した藤田直哉の著書『宮﨑駿の「罪」と「祈り」』の序文では、宮崎自身が後年語った戦時中の記憶が取り上げられている。

家族とともにトラックで空襲から逃げた際、助けを求める親子を乗せられなかった経験が、長く心に残っていたという。

この経験は、後年の宮崎作品に見られる戦争への批判や、弱い立場にある人々を救おうとする主人公像を考えるうえで、見逃せない背景だ。

宮崎駿の若い頃の写真から分かること

宮崎駿の若い頃の写真を調べる読者にとって、注目したいのは単なる容姿の変化だけではない。

東映動画時代の写真、若手アニメーターとして働いていた頃の姿、高畑勲ら制作仲間との写真などは、それぞれ異なる時代の宮崎を知る手がかりになる。

特に、1960年代から1970年代にかけての制作現場を知ると、後年の監督としてのイメージとは異なる、集団制作の一員として働く若きアニメーターの姿が浮かび上がる。

写真を比較する際には、撮影年、作品名、写真に写っている人物の説明が付された資料を優先したい。公開された作品の年代と、写真そのものの撮影年代は必ずしも一致しないためだ。

【学生時代】学習院大学に進学した宮崎駿と『白蛇伝』『雪の女王』

宮崎駿の学生時代には、漫画家を志していた青年がアニメーションの世界へ進むまでの重要な転機があった。

漫画家を志していた高校時代

宮崎は高校時代、漫画家を目指していた。

当時の日本では、アニメーションという言葉が現在ほど一般的ではなく、「漫画映画」と呼ばれる作品が親しまれていた。

宮崎の進路を大きく変えたのが、1958年公開の東映動画作品『白蛇伝』だった。

文化庁のメディア芸術関連メディア「MACC」に掲載された評論家・叶精二の解説によると、宮崎は大学受験期にこの作品を鑑賞し、強い衝撃を受けた。

宮崎自身も後年、『白蛇伝』との出会いについて、漫画家を目指していた自分が、作品のひたむきで純粋な世界に憧れていることに気づいたと振り返っている。

ここで重要なのは、宮崎が単に絵を描くことを好んでいたのではなく、映像によって人間の感情や物語を表現することに魅力を見いだした点だ。

学習院大学政治経済学部に進学


宮崎駿が1963年に卒業した大学。学部は政治経済学部で、美術系の専門大学ではなかった。

宮崎は1959年に学習院大学へ進学し、政治経済学部で学んだ。

大学時代も漫画への関心は続いており、卒業後にアニメーションの仕事へ進むまで、表現者としての方向性を模索していた。

興味深いのは、大学で専門的なアニメーション教育を受けて監督になったわけではないことだ。

政治経済学を学んだ後、実際の制作現場に入り、作画や演出の経験を積みながら独自の表現を築いていった。

1963年の卒業と東映動画への入社は、その後の人生を決定づける転換点となった。

『雪の女王』との出会いが創作への意識を深めた

宮崎駿に影響を与えた作品として、もう一つ欠かせないのが1957年公開のソ連アニメーション映画『雪の女王』だ。

この作品については、三鷹の森ジブリ美術館の関連公式インタビューに、宮崎本人の詳しい証言が残されている。

宮崎が『雪の女王』を鑑賞したのは、東映動画に入社した頃だった。

東映動画に入社した頃、練馬の公民館で観ました。

さらに興味深いのは、その後の行動である。

東映動画の職場でロシア語原版の音声を録音したテープを借り、繰り返し聴いていたという。映画そのものを鑑賞したのは一度だったが、音声を何度も再生するほど作品に強く引きつけられていた。

宮崎が特に心を動かされたのは、主人公ゲルダの姿だった。

友人カイを救い出すため、危険な旅を続けるゲルダ。宮崎は、彼女のひたむきさや、周囲の人々の心を動かしていく力に強く共感していた。

『白蛇伝』がアニメーションへの入口だったとすれば、『雪の女王』は物語の人物描写や映像表現への関心をさらに深めた作品だったと考えられる。

【東映動画時代】高畑勲との出会いと『太陽の王子ホルスの大冒険』

1963年、学習院大学を卒業した宮崎駿は、東映動画(現・東映アニメーション)へ入社した。

ここから、後のスタジオジブリにつながる人間関係と制作経験が生まれていく。

1963年、アニメーターとして社会人生活をスタート

宮崎の最初期の仕事には、劇場用アニメーション『わんわん忠臣蔵』などがある。

文化庁のメディア芸術関連資料によると、宮崎は『わんわん忠臣蔵』で動画を担当した。

動画とは、原画と原画の間を埋め、キャラクターの動きを滑らかにつなぐ重要な工程だ。

現在のように監督として作品全体を統括する立場ではなく、まずは制作現場で一枚一枚の絵を描く仕事から出発したのである。

高畑勲との出会いは労働組合の事務所だった


1935年生まれの映画監督。『太陽の王子ホルスの大冒険』『アルプスの少女ハイジ』などで宮崎駿と協働し、後のスタジオジブリを支えた重要人物。

宮崎駿の若い頃を語るうえで、高畑勲との関係は欠かせない。

二人の出会いについて、2013年の宮崎監督の記者会見を報じたシネマトゥデイは、本人の発言を次のように伝えている。

宮崎は、高畑との出会いについて、会社から組み合わせられたのではなく、労働組合の事務所で会い、長い時間話をしたと振り返った。

つまり、最初から会社が用意した監督とアニメーターの組み合わせだったわけではない。

当時の二人は、高畑が演出を担当し、宮崎がアニメーターとして参加する関係だった。制作を重ねるなかで、互いの考え方や表現に対する理解を深めていった。

『太陽の王子ホルスの大冒険』で若き才能が開花

1968年公開の『太陽の王子ホルスの大冒険』は、宮崎のキャリアにおける大きな転換点となった。

作品の監督は高畑勲。宮崎は場面設計と原画を担当した。

項目内容
公開年1968年
監督・演出高畑勲
場面設計宮崎駿
原画宮崎駿ら
作画監督大塚康生
制作会社東映動画
特徴長編アニメーション制作に約3年半を費やした

国立映画アーカイブの作品解説によると、この作品は高畑にとって長編初監督作品であり、宮崎ら若手スタッフのアイデアを積極的に取り入れながら制作された。

また、企画から完成まで約3年半を要した作品でもある。従来の勧善懲悪型の物語から踏み出し、登場人物の複雑な心理や葛藤を描いた点も特徴だ。

ここで注目したいのは、宮崎が単なる作画担当にとどまらず、作品全体の空間設計や演出につながる仕事を担っていたことだ。

人物の動きだけでなく、背景、画面構成、場面の見せ方まで考える経験が、後の監督作品につながっていった。

【1970年代】『パンダコパンダ』の制作秘話と高畑勲との共同作業

東映動画を離れた後も、宮崎駿は高畑勲と仕事を続けた。

1971年にはAプロダクションへ移籍。そこで生まれた代表的な作品の一つが、1972年公開の『パンダコパンダ』である。

『長くつ下のピッピ』の企画断念から生まれた作品

『パンダコパンダ』には、意外な制作背景がある。

当時、高畑勲、宮崎駿、小田部羊一らは、スウェーデンの作家アストリッド・リンドグレーンによる児童文学『長くつ下のピッピ』のアニメーション化を企画していた。

宮崎は原作者との交渉を兼ねてスウェーデンのゴトランド島へ渡り、作品の舞台となる地域を取材した。

しかし、最終的に原作者の許諾を得られず、企画は実現しなかった。

そこで、新たなオリジナル企画として誕生したのが『パンダコパンダ』だった。これは三鷹の森ジブリ美術館の公式プロダクションノートにも記されている。

パンダブームが制作を後押しした

1972年、日本には中国からパンダが贈られ、上野動物園を中心に全国的なパンダブームが起きた。

この社会的な流れも、作品の企画を具体化するきっかけとなった。

『パンダコパンダ』では、次のように役割が分担された。

- 高畑勲:演出
- 宮崎駿:原案・脚本・画面設定
- 小田部羊一:キャラクターデザイン
- 大塚康生:作画監督

三鷹の森ジブリ美術館の公式資料によると、当時の制作チームには、実際に小さな子どもがいたスタッフも多く、自分たちの子どもに見せたい映画を作ろうという発想が企画の出発点になった。

テレビアニメが主流になり始め、子ども向けの良質な長編作品が少なくなっていた時代背景もあった。

『パンダコパンダ』には後のジブリ作品の原型がある

『パンダコパンダ』を後年のジブリ作品と比較すると、興味深い共通点が見つかる。

特にパパンダの大きく包み込むような存在感は、『となりのトトロ』のトトロを思わせる。

また、少女ミミ子の自由で伸び伸びとした性格には、『長くつ下のピッピ』の影響が見られる。

これは単なるキャラクターの類似ではない。子どもの視点を中心に据え、日常生活のなかに不思議な出来事を自然に溶け込ませるという、後の宮崎作品にも通じる表現の特徴だ。

『アルプスの少女ハイジ』で高畑・宮崎コンビが成熟

1974年には『アルプスの少女ハイジ』の制作に参加した。

高畑勲が監督を務め、宮崎は画面構成を担当。人物の動きだけでなく、自然の風景や生活空間を画面全体でどう見せるかという仕事に取り組んだ。

スタジオジブリの公式「歴史」でも、この作品はテレビアニメーションの一つの到達点として紹介されている。

宮崎自身も後年、高畑との仕事について、打ち合わせをほとんど必要としないほどの関係になっていたと語っている。

【1978~1985年】『未来少年コナン』から『風の谷のナウシカ』、ジブリ設立へ

1970年代後半になると、宮崎駿はアニメーターから演出家、そして映画監督へと活動の幅を広げていく。

1978年『未来少年コナン』で初めてシリーズ演出を担当

1978年4月4日、NHK総合で『未来少年コナン』の放送が始まった。

宮崎が演出を担当したこの作品は、テレビアニメーションのシリーズとして初めて本格的に監督・演出の役割を担った作品として知られる。

日本アニメーションの公式作品紹介でも、宮崎駿の初監督作品として紹介されている。

全26話の物語では、少年コナンと少女ラナを中心に、文明崩壊後の世界で人間が生きる姿を描いた。

ここでは、宮崎の得意とする躍動感のある人物表現や、自然環境と人間の関係を描く手法が存分に発揮されている。

1979年『ルパン三世 カリオストロの城』で劇場長編を初監督

1979年12月15日には、『ルパン三世 カリオストロの城』が公開された。

宮崎駿が劇場用長編映画で初めて監督を務めた作品だ。

製作は東京ムービー新社。脚本には宮崎駿と山崎晴哉が参加し、作画監督は大塚康生が担当した。

この作品の魅力は、ルパン三世という既存の人気キャラクターを扱いながら、宮崎独自の映像表現を確立しているところにある。

特に印象的なのが、次の要素だ。

- 立体的な建物や街並みの描写
- スピード感のあるカーチェイス
- キャラクターの身体能力を生かしたアクション
- 美しい風景と物語の一体感

トムス・エンタテインメントの公式作品情報でも、1979年12月15日の公開と宮崎の監督担当が確認できる。

なお、『未来少年コナン』がテレビシリーズでの初監督に当たり、『カリオストロの城』は劇場長編での初監督に当たる。この違いは、経歴を調べる際に混同しやすいポイントだ。

1982年『風の谷のナウシカ』の漫画連載が始まる

宮崎駿の創作活動を大きく変えたもう一つの出来事が、漫画『風の谷のナウシカ』の連載だった。

1982年2月号の月刊『アニメージュ』で連載が始まり、宮崎自身が原作を手掛けた。

作品の舞台は、巨大な戦争によって文明が崩壊した後の世界。自然と人間、戦争と平和、生命の尊厳など、後の宮崎作品にも繰り返し登場するテーマが描かれている。

この漫画は1984年の劇場アニメーション映画へと発展した。

スタジオジブリの公式作品情報によると、映画版では宮崎が原作・脚本・監督を担当し、高畑勲がプロデューサーを務めた。アニメーション制作はトップクラフトが担った。

1985年、スタジオジブリ設立に参加

『風の谷のナウシカ』の成功は、宮崎駿と高畑勲が長編アニメーション制作に取り組むための大きな基盤となった。

1985年6月、東京都武蔵野市吉祥寺に株式会社スタジオジブリが設立された。

スタジオジブリの公式「歴史」によると、設立の中心となったのは『風の谷のナウシカ』を製作した徳間書店だった。

設立当初から目指していたのは、テレビアニメーションを中心とする従来の制作体制とは異なる、劇場用長編アニメーションを中心とした制作環境である。

作品ごとにスタッフを集める方式を採用し、一本一本の映画に力を注ぐ方針が打ち出された。

宮崎が若い頃から積み重ねてきた作画、場面設計、演出の経験が、ここで一つの制作拠点へと結実した。

【プロの結論】宮崎駿の若い頃に見る、巨匠を生んだ3つの原点

宮崎駿の若い頃を振り返ると、単純な天才物語では説明できない、創作活動を支えた三つの要素が見えてくる。

1. 優れた作品との出会いが進路を変えた

『白蛇伝』や『雪の女王』との出会いは、宮崎にアニメーションの可能性を意識させた。

重要なのは、作品を見て感動するだけで終わらず、自分も作り手になろうとしたことだ。

2. 高畑勲らとの共同作業が表現の幅を広げた

宮崎は若い頃から、優れた仲間と一緒に作品を作り上げてきた。

高畑勲、大塚康生、小田部羊一らとの仕事を通じて、個人の作画能力だけでは実現できない、物語全体を構築する力を身につけた。

特に『太陽の王子ホルスの大冒険』や『アルプスの少女ハイジ』は、後の監督作品を理解するうえで欠かせない作品だ。

3. 既存の制作環境に満足せず、自分たちの場所を作った

宮崎はアニメーターとして経験を積み、テレビシリーズの演出を担当し、劇場用長編映画の監督へと進んだ。

そして『風の谷のナウシカ』の成功を経て、スタジオジブリの設立に参加した。

この歩みから分かるのは、創作上の理想を実現するためには、作品の技術だけでなく、それを支える制作環境も必要だったということだ。

【宮崎駿の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:宮崎駿は若い頃、何歳で東映動画に入社しましたか?

A1:1941年1月5日生まれで、1963年に学習院大学政治経済学部を卒業して東映動画へ入社しました。入社時は22歳でした。

Q2:宮崎駿が若い頃に影響を受けた映画は何ですか?

A2:特に重要なのは、1958年公開の『白蛇伝』と、ソ連のアニメーション映画『雪の女王』です。『白蛇伝』は高校時代に鑑賞し、アニメーションへの関心を深めるきっかけになりました。『雪の女王』は東映動画入社後に鑑賞し、主人公ゲルダのひたむきさに強く共感しています。

Q3:宮崎駿と高畑勲はいつ出会ったのですか?

A3:東映動画時代です。宮崎本人によると、労働組合の事務所で出会い、長い時間話をしたことが二人の交流の始まりでした。

Q4:宮崎駿の初監督作品は何ですか?

A4:テレビシリーズでは1978年の『未来少年コナン』、劇場用長編映画では1979年の『ルパン三世 カリオストロの城』です。

Q5:スタジオジブリはいつ設立されましたか?

A5:1985年6月です。『風の谷のナウシカ』の成功を受け、徳間書店を中心として設立されました。

まとめ:宮崎駿の若い頃を知ればジブリ作品の原点が見えてくる

宮崎駿の若い頃は、漫画家を志した高校時代から、学習院大学での学生生活、東映動画への入社、高畑勲との出会い、そしてスタジオジブリ設立へと続く、挑戦の連続だった。

特に押さえておきたいのは、次の流れだ。

- 1958年:『白蛇伝』との出会い
- 1963年:学習院大学卒業、東映動画入社
- 1968年:『太陽の王子ホルスの大冒険』公開
- 1972年:『パンダコパンダ』公開
- 1978年:『未来少年コナン』でシリーズ初監督
- 1979年:『ルパン三世 カリオストロの城』で劇場長編初監督
- 1984年:『風の谷のナウシカ』公開
- 1985年:スタジオジブリ設立

2026年現在85歳となった宮崎駿監督の作品を改めて見ると、若い頃に経験した人間関係、映画との出会い、制作現場での試行錯誤が、後年の創作に深く結びついていることが分かる。

巨匠になってから突然才能が開花したのではない。若いアニメーターとして一枚の絵を描き、仲間と議論し、何度も作品を作り直してきた積み重ねが、世界的な映画監督・宮崎駿を形作ったのである。

宮崎駿の若い頃を知ることは、ジブリ作品を単なる人気アニメーションとしてではなく、一人の作家が長い時間をかけて築き上げた表現の歴史として理解することにつながる。 (出典: 宮崎 駿 若い 頃(Yahoo!ニュース))

宮崎駿若い頃
宮崎駿若い頃
宮崎駿若い頃